設立秘話
長尾クリニックの生い立ちから現在に至るまでのことを長尾院長がお話します。
人を診る医師になりたい
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長尾医師は香川県で生まれ、その後、小学校から高校までを兵庫県伊丹市で過ごした。高校3年生の春までは教師志望だったそうだが、一方で医療について「おかしい」という思いが芽生えてきたという。  

「身内に病人がいたので、病院や医師の存在が間近だったのですが、病気は診るけれども人は診ないと感じたんですね。そこで、人を診る医師になりたいと志望を変更しました。今は研修医や看護学生が集まる教育施設にもなりましたし、禁煙指導や尼崎市内の高校の校医もさせていただくなど教育にも携わっているので、教師になりたいという夢も叶った気がしていますね。」


大学時代はサークル活動として、「社医研」と呼ばれる無医地区研究会に所属した。佐久総合病院の若月俊一先生に憧れ、春、夏、冬休みには2カ月ずつ、長野県下伊那郡浪合村の無医地区で医療活動をしたり、様々な医療問題を研究したという。
「公民館に合宿し、毎日、何軒か家庭訪問して、血圧を測ったり、健康教育を行ったりしました。今、在宅医療を頑張っているのは大学時代の無医村での経験がルーツになっているんでしょうね。無医村とは異なる医療過密地帯で開業してしまいましたが、浪合村と同じように尼崎にも私を必要としてくれている方がいらっしゃるんだと思っています。」
また卒後研修の勉強会を開き、聖路加国際病院の日野原重明先生を講師に招くなど、積極的な大学生活を送る中で 「プライマリケアを担うかかりつけ医には総合的な能力がいる」ということを強く学んだそうだ。

医師として一生の財産となる経験をしました

大学卒業後は大阪大学の第二内科に入局し、大阪市の聖徒病院で研修を行う。
「病院の方針が内科医であっても外科の経験が必要ということで、半年間、毎日のように手術室に入り、助手の助手として手術に参加させていただきました。聖徒病院には2年間お世話になったのですが、期間中は麻酔の勉強もさせていただくなど、医師として一生の財産となる経験をしました。」

聖徒病院は当時の院長であった垣見先生が肝臓病を専門にされていたため、多数の肝臓病患者さんが来院していた。内科医としての研修が始まったばかりの長尾医師が主治医となり、肝硬変や末期の肝臓がんの患者さんに接していた。
「肝硬変の患者さんは最終的には必ずと言ってもいいほど吐血されます。胃チューブや食道静脈瘤の圧迫チューブを挿入するのですが、ベッドサイドが血だらけになるんです。聖徒病院は肝臓病に限らず、重症率が高かったので、受け持ちでない患者さんも含め、毎日のように患者さんの最期に立ち会っていました。そうした重症患者さんと文字通りの血みどろの格闘をしながら、どうせなら苦しまない最期の医療ができないものかと考えるようになっていきました。余計な処置をしない最期、そして在宅での自然な最期、尊厳ある最期を皆でサポートしていきたいと駆り立てられていったんですね。」

とにかく目の前にいる人から治療していきました

予防医学や未病の医学へ関心を深めていた長尾医師だったが、開業することは全く念頭になく、大阪大学医学部附属病院で臨床や研究の日々を送り、医学博士を授与された。1991年には市立芦屋病院に移り、月に200時間を超す残業をするなど、臨床の第一線にいた。


そして1995年1月、阪神大震災に見舞われ、市立芦屋病院にも被災した方々が続々と搬送されてきた。
「震災直前の入院患者数は200人弱でしたが、震災後はどんどん増えて1000人近くになりました。病院のキャパシティをはるかに超えていましたが、医師は病棟ごとに持ち場を決めて、とにかく目の前にいる人から治療していきました。」
震災後、長尾医師は徐々に開業への意志を固めていた。公立病院では自分の理想の医療を行うにあたり、数々の制約があると感じたからだという。


 「もともとターミナルの患者さんが多い病院でしたので、往診したいと申し出たら、今の体制では無理だと言われてしまったんですね。それが開業を決意した大きな理由でした。」

理想を形に

長尾クリニックとしての最初の開業地は現在地からは若干離れた商店街の中の雑居ビルの一角であった。長尾医師の先輩が開業していた場所だが、閉院することになり、継承する形で1995年7月にスタートした。しかし開業後2年間は来院患者数が伸びなかったという。
「3年目ぐらいから徐々に忙しくなってきました。とても小さいクリニックでしたので、10人もいらっしゃれば、階段にまで溢れてしまいます。しばらく患者さんには我慢していただきましたが、2001年に今の場所に移りました。」

現在地は尼崎市を東西に横断する昭和通りに面し、阪神電鉄本線の出屋敷駅からも徒歩6分ほどとアクセスに恵まれた好立地である。昭和40年代半ばに建てられた銀行の建物を改装し、長尾医師の理想を形にしていった。また別館として「在宅医療ステーション」も新設した。

「銀行は天井が高く、セパレーションが少ないので、クリニックにぴったりの物件なんですよ(笑)。将来的に複数の医師でやっていきたいという希望を持っていましたので、診察室を3つ作りました。しかし、3つでは足りませんでしたので失敗でしたね。結局、別館の方に診察室を増設し、計5室にしたところです。」


長尾医師は複数医師の体制にしたことを「一線を越えた」と表現する。2002年に市立芦屋病院の後輩だった谷口雅厚医師を副院長に招き、さらに1人の医師を迎え、長尾クリニックは一気に3人の常勤医師が3つの診察室に入ることになった。
「患者さんの数はゆっくりと右肩上がりを続けていきました。お一人で1日400人を診る先生もいらっしゃるそうですし、私も300人までは経験しましたが、医療の質がどうしても落ちてしまいます。午前中は30人から40人が理想ですね。そうなると医師が3人必要だという計算をしたわけです。ただ、医師には自分のやり方を人に見られたくないという特性がありますから、患者さんへの対応やカルテの書き方などを、できるだけ標準化するような配慮をしました。」
現在は長尾医師を含めた常勤医師6人、非常勤医師5人という陣容であるため、情報を共有化する媒体としてメーリングリストを活用している。
「日頃は医師が全員集まることが難しいので、月に1回、夜に集まり、医局会を開いています。たとえば糖尿病の患者さんへの指導など、医師による違いをなくして、診療内容を標準化させることが目的です。」

今後の展開として
「プライマリケアの範囲での小児科診療をやってみたいですね。 それから在宅と外来の橋渡しを充実させたいです。『家にはいられない。でも病院も嫌だ。』という患者さんが増えているのに、グループホームなどの中間施設が乏しいのが現状です。そういった中間施設と連携を図っていきたいですね。長尾クリニックは日曜日にも医師が2人常駐し、2つの診療室で診療をしています。スタッフと価値観を共有しながら、良き前例となっていけるように前進していきたいと思っています。」

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